2015年7月13日月曜日

大生郷天満宮(常総市)

茨城県常総市大生郷町に鎮座する「大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)」のご紹介です。
ご祭神は菅原道真公になります。
御由緒として、菅原道真公の三男景行(かげゆき)公が、父の安否を尋ねる為に太宰府天満宮を訪れると、道真公は自分の姿を描き与え、言われます。
「われ死なば骨を背負うて諸国を遍歴せよ。自ら重うして動かざるあらば、地の勝景我意を得たるを知り、即ち墓を築くべし」
道真公が延喜三年(903)二月二十五日に亡くなられると、景行公は遺言通り遺骨を奉持、諸国を巡り二十余年が過ぎます。そして常陸介として常陸国にやってきた景行公は、延長四年(926)に現在の桜川市真壁町羽鳥に塚を築いて遺骨を納め、祀ります。しかし延長七年(929)、現在の鎮座地を道真公の奥津城と定め、社殿を建て、羽鳥より遺骨を遷し、お祀りしたのが始まりとされています。
関東から東北にかけては最古の天満宮であり、遺骨を御神体として、遺族によりお祀りされたのが当社だけであるということで、御廟天神と称され、太宰府天満宮、北野天満宮とともに、日本三天神の一社に数えられている、と言う事です。
しかし、この日本三大○○、特に三番目に関しては土地土地や記録によって変わる事もしばしば。あまり拘らずにいた方が良いんでしょうね(゜゜)
天正四年(1576)、下妻城主多賀谷氏と小田原城主北条氏との戦で兵火に罹り社殿が炎上してしまいますが、天正十年(1582)多賀谷氏により再建されます。
正徳四年(1714)、上野の寛永寺により社殿の修復が行われ、その後も営繕費用が献納されます。
享保九年(1724)には飯沼開発の祈願所となり、享保十三年(1728)に工事が無事完成を見ると、飯沼周辺三十一ケ村の総鎮守と崇められ、村々に御分社が建てられたとの事です。
大正八年に火災により社殿を始め、社宝や古文書の多くが失われしまいます。現在の本殿は昭和四年に再建され、拝殿は昭和三十年に再建されています。
さて、神社です。(今回の写真には平成27年6月のものと、平成24年4月のものが混じっています)

駐車場は神社の左手側に大きな駐車場があります。

一の鳥居と社号標です。
石段には男坂の名前がつけられています。
石段上に二の鳥居です。
鳥居裏には狛犬さんがいますが、木々に隠れてお顔は良く見えませんね(/ω\)
以前参拝時、やっぱり微妙に見えません、と言うよりこっちの腕の問題か^^;
手水舎です。
手水舎向かいには撫牛像です。
拝殿です。結構賑やかになっていますね(^^)
扁額です。
神紋は全国の天満宮と同じく「梅鉢紋」になります。
本殿です。
此方は拝殿前にある、羽鳥から大生郷に遺骨を遷した時の石碑です。
現在は石碑自体の文字は読めなくなっています。
境内には幾つかの境内社があります。
此方は稲荷社ですね。
後方には多くの稲荷社が控えています。
本殿後方には集合社があります。
右手より、香取鹿島社、八雲社、大国社、熊野社、春日社です。
此方は天神宮でいいのかな?
天神宮の裏側にはちょっとした空間があります。
かつて何かの神事をしていた空間なんでしょうか?
甕?鉢?壺?
これは聖徳太子と読めるので、大工の人達の「太子講」の石碑のようです。
お隣には庚申塔です。
此方は浄土真宗開祖である親鸞上人が植えたと伝わる「親鸞上人礼拝の杉」だそうです。
樹齢七百年の大木だったらしいですが、明治三十五年の台風により幹半ばで折れ、更に大正八年の社殿炎上で類焼してしまったのだそうです。
神社後方には、菅原道真公のお墓である「御廟」と神苑が広がります。
現在まだ整備中ということですが、季節によっては花が綺麗なんでしょうね(^^)
此方が「菅公御廟」です。
後ろ側には、以前の御廟があります。
どうやら享和二年(1802)の建立になるようです。
神苑内にも境内社があります。
厳島社です。
此方は大国社です。

御朱印は社務所で頂けます。
また、此方にはオリジナルの御朱印帳があります。
最初の頁には、平成十四年に斎行された大祭の朱印が押印してあります。

僕は行ってませんが、近くには国の重要文化財に指定されている「坂野家住宅」があるそうです。映画やドラマのロケ地として度々使われているそうですよ(^o^)/

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